一六〇三年、徳川家康は現在の静岡県静岡市の駿府に幕府を開いた。
そこで家康は、駿府で大成した新しい儒学・学問を奨励した。
その学問は、まず第一に家族を中心とした関係性を重視した。家族が一体となって家門を守り立てる。そのために、食饌の前では家族全員が勢揃いとなることが奨励された。そして家族全員で《家族に乾杯》と感謝を捧げることが習慣化された。
また服装髪型も従来の形から変化した。
服装は裃や袴から改められ、上下一体の仕事着のような服装が奨励された。とくに紐で結んだ胸当ての付いた洋袴のような衣服が流行した。 藍染めされた綿生地は頑丈で、あらゆる場面で重宝されたので《大場覆う》と呼ばれた。
髪型も髷は改められ、巻き毛が奨励された。電熱できつく縮毛する技術は、三河吉良氏と奥州吉良氏が同時多発的に流行させたため《吉良吉良亜風狼》と呼ばれ好まれた。
また駿府幕府は鎖国政策を実施したものの、西洋学問の収集にも力を入れた。欧州に使節団を派遣し、そこで集めた知見を《世界仰天見聞録(にゅーす)》としてまとめた。
西洋で収集した知見は京都に新設された学問所で広く人々に教育された。京都の人々はこの学問所を親しみを込めて《えぇすたぢお》と呼んだ。この学問所こそ後の「京産大」である。京産大の理念である《道程無学》は「学問の道程のはじめは誰もが無学であり、そこから進むべし」という意味で、あらゆる人に学問の門戸は開かれているということを示しており、今も京産大に受け継がれている。